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おはしましき。これも皆一の人にて世の親となり給へりしだに、やうをかへてさまざまの御身のうれへはありき。たゞ人には大納言公實の御むすめこそ待賢門院とて崇德院後白河の御母にておはせしかど、それも後白河の御世をば御覽ぜず讃岐の院の御末もおはしまさず。されば今のやうにたゞ人の御身にて三代國のおもしといつかれ、兩院とこしなへに仰ぎ捧げ奉らせ給へば、さきの世もいかばかりの功德おはしまし、この世にも春日大明神をはじめよろづの神明佛陀の擁護厚くものし給ふにこそ。ありがたくぞ推し量られ給ふ。かくて御賀は二月三十日ごろなり。本院、新院、東二條院、遊義門院〈いまだ宮と申す。〉皆かねてより北山に渡らせ給ふ。新陽明門院も新院の一つ御車にておはします。廿九日の夜まづ行幸あり。雅樂司、樂を奏す。院司左衞門督公衡事のよし申してのち中門によせらる。その後春宮行啓、門よりおりさせ給ふ。傅のおとゞ二條御車に參り給へり。その日になりぬれば寢殿の東おもての母屋廂までとりはらひて釋迦如來の繪像かけたてまつる。道塲のかざり、まことの淨土の莊嚴もかくこそとめでたく淸らをつくされたり。御經の筥二合、金泥の壽命經九十卷法華經入れらる。名香柳の織物に藤をぬひたるにてつゝみて御經の机によせかく。御簾のうちに西の一間に繧繝二帖唐錦のしとねしきて內の上の御座とす。おなじ御座の北に大文のかうらい一帖敷きて春宮渡らせ給ふ。西の庇にこれも屛風をそへて、繧繝二帖唐錦のしとねに准后居給へり。同じ庇に東二條院わたらせ給ふ。はるばるとかうけつの几帳のかたびらをいだして、色々の袖口ども御方々けぢめわかれておし出でたるほど、立田姬もかゝる錦の色はいかでかはと