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浪荒くたち海の上あさましくなりて皆沈みにけるとぞ。猶吾が國に神のおはします事あらたに侍りけるにこそ。さて爲氏の大納言、伊勢の勅使にてのぼる道より申しおくりける。

  「勅をしていのるしるしの神風によせくる浪はかつくだけつゝ」。

かくてしづまりぬれば、京にも東にも御心どもおちゐてめでたさかぎりなし。かの異國の御門心うしとおぼして湯水をもめさず「我いかにもしてこの度日本の帝王にうまれて、かの國を亡す身とならむ」とぞちかひて死に給ひけるとぞ聞き侍りし。まことにやありけむ。おなじ六年正月六日、日吉社の訴詔勅裁なしとて御輿は都へ入らせ給ふ。六波羅の武士どもけしきばかり防ぎ奉りけれど、まめやかには神にむかひ奉りて弓いるものもなければ、紫宸殿淸凉殿などにふりすてまゐらせて山法師はのぼりぬ。御門は急ぎ對屋にいでさせ給ひて腰輿にて近衞殿へ行幸なる。殿上人ども柏ばさみして仕うまつりけり。七日の節會もまほには行はれず。それより三條坊門富〈萬里イ〉小路の通成のおとゞの家へ行幸なりてしばし內裏になりし時、富〈萬里イ〉小路おもての四足はたてられ〈侍りイ有〉き。かゝりし程に、この家に石淸水の若宮を祝ひまゐらせたる社おはしますに狐多く侍りけるを、瀧口のなにがしとかや過ちたりける御とがめにてよろづわづらはしくかうかうしき事どもありければ萬里小路殿へ歸らせ給ひにき。この御門はねび給ふまゝに、いとかしこく御才など勝れさせ給へれば、なべて世の人もめでたき事に思ひきこゆ。はかばかしき女御后などもさぶらひ給はでいとつれづれなるに、新陽明門院の御かたに堀川の大納言の御むすめ、東の御方とてさぶらひ給ふを忍び忍び御覽じ