Page:Kokubun taikan 07.pdf/65

提供:Wikisource
このページは検証済みです

  「雲ゐまでたちのぼるべき烟かとみえしおもひのほかにもあるかな」

などいふ歌よみ給へりなど申すこそ更によもと覺ゆれど、いとさばかりの事に和歌の道思しよらじかしな。御心の中には自ら後にも覺えさせ給ふやうもありけめど、人の聞き傳ふばかりはいかゞありけむ」」といへば、翁「「げにそれはさる事に侍れど、昔も今もいみじきことの折かゝることいと多くぞ聞え侍りし」」とてさゝめく、「「さていかなる事にか、東宮御位せめおろしとり奉り給ひては、又御聟にとり奉らせ給ふほど、もてかしづき奉らせ給ふ御有樣、誠に御心も慰ませ給ふばかりこそ聞え侍りしか。おものまゐらするをりは大盤所におはしまして、御臺や盤などまで手づからのごはさせ給ふ。何をも召し試みつゝなむまゐらせ給ひける。御さうし口までもておはしまして、女房にたまはせ、殿上に出すほどにも立ちそひて、よかるべきさまにをしへなど、これこそは御ほいよとあはれにぞ。このきはに故式部卿の宮の御事ありけりといふ事もそらごとなり。何故ある事事もあらなくに昔事どもこそ侍れ、おはします人の御事申す、すぢなきことなりしかしな。さて式部卿の宮と申すは故一條院の一のみこにおはします。その宮をば年ごろそちの宮と申しゝを、小一條院の式部卿にておはしましゝが東宮にたゝせ給ふ。あく所にそちの宮をばのかせ給ひて式部卿の宮と申しゝぞかし。〈是高倉の宮の御おほぢなり。〉その後の度の春宮にもはづれ給ひておぼし歎きしほどに、うせ給ひて後又この小一條院御さしつぎの二の宮敦儀の親王をこそはいはくらの式部卿とは申すめれ。又次の三の宮敦平の親王を中務の宮と申す。次の四の宮師明親王と申す。幼くより出家して仁和寺