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せ給ひにき。限なく人目をつゝむ事なればあやしう誰が御腹といふ事もなくて、院の御乳母の按察の二位の里にわたし奉り給へり。幼なき御心にもいかゞ心え給ひけむ、「宮の御母君をば誰とか申す」と人の問ひきこゆれば「いはぬ事」とのみぞいらへさせ給ひける。御心のあくがるゝまゝに御覽じすぐす人なく亂りがはしきまでたはれさせ給ふ程に、腹々の宮たち數しらず出で來給ふ。大かた十三の御年より宮はいできそめさせ給ひしが、年々に多くのみなり給へばいとらうがはしきまでぞあるべき。故皇后宮の御ざうしにて貫川といひし、御りやうとかや聞ゆる社の神子にてぞありける。先にも聞えしやうに位の御程に度々召されて姬宮生れ給へりしを、それも御乳母の按察の二位殿の里にかの五條院の御腹のと二所おなじ御かしづきぐさにておはせしほどに、近衞殿〈へまイ有〉いらせ給ひぬれば、殿はもとおはせし北政所をもすさめ給ひてこの宮を類ひなく思ひ聞えさせ給ふ程に、かひがひしく若君〈左大臣つねひら〉いで來給へるをもいみじうかしづきいたはり給ひて、前の北政所の御腹の太郞君中將ばかりにて物し給ふをもよくせずばおしのけぬべうもてなし奉り給ひけるを、新院聞かせ給ひて、「いといとほしき事なり。これはいまだ兒なり。も〈ちイ〉とおとなしうなり給へるをばいかでか引き違へるやうはあらむ」とのたまはせて、そのおとゞは遂に御家もたもたせ給へりしなり。また北白川殿の女院に大納言の君とてさぶらひし人の曹司に下野といひしものは、田樂とかやいふ事するあやしの法師の名をば玄駒といふがむすめなりき。かの女院は新院の御母代にて、常に御幸もなりしかばおのづから御覽じそめけるにや、ことの外に時めきいでゝこ