Page:Kokubun taikan 07.pdf/641

提供:Wikisource
このページは校正済みです

ぶんもありけるとていくほどなくて弘安七年二月十五日に宮かくれさせ給ひにしをも、大納言殿いみじう歎きたまひけるとかや。まことや新院には一とせ近衞の大殿〈基平〉の姬君、女御にまゐり給ひにしぞかし。女御ときこえつるをこのほど院號あり、新陽明門院とぞきこゆめる。建治二年の冬の頃、近衞殿にて若宮生れさせ給ひにしかばめでたくきらきらしうて、三夜五夜七夜九夜などいまめかしくきこえて、御子もやがて親王の宣下などありき。

     第十二 老のなみ

建治三年正月三日、內のうへ御かうぶりしたまふ。十一にぞならせ給ふらむかし。御諱世仁ときこゆ。ひきいれは關白太政大臣殿兼平、理髮頭中將もとあき、御あげまき大炊御門大納言信嗣の君仕うまつられけり。御遊始まる。琵琶玄象今出川大納言實兼、和琴鈴鹿信嗣大納言、しやうのこと殿の大納言兼忠の君にて坐せしなめり。とんじき祿などの事常の如し。廿二日朝觀の行幸龜山殿へなりしかば、上達部殿上人例の色々のえり下襲、織物打物めでたくゆゝしかりき。御前の大井川に龍頭鷁首浮べらる。夜に入りて鵜飼どもめして篝火ともしてのせらる。御まへの御あそび地下の舞などさまざまのおもしろき事ども例の事なればうるさくて、さのみもえ書かず。同じ三月廿六日石淸水社へ行幸、四月十九日賀茂社へ行幸、孰れもめでたかりき。人々定めて記しおき給へらむとゆづりてとめ侍りぬ。春宮の御元服八月と聞えしを、奈良の興福寺の火の事により延びて十二月十九日にぞせさせ給ひける。十六日にまづ內裏へ行啓はなる。淸凉殿の東の廂に倚子をたてらる。御門も倚子につかせ給ふ。ひきいれは