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くりたてられて御わたましの夜こそやがて火出できて燒けにし事もあれば、これより重き大事もあるべかりけるに、よかはりたらむはいかゞはせむ。かくて今年もくれぬ。上はいよいよ世の中心あわたゞしうおぼされて、おりゐなむの御心づかひすめり。位におはしましては十五年ばかりにやなりぬらむ。いまだ三十にも遙に足らぬほどの御齡なれば今ぞさかりに若うきよらなる御ほどなめる。

     第十一 草まくら

文永十一年正月廿六日、春宮に位讓り申させ給ふ。廿五日の夜まづ內侍所劔璽ひき具して押小路殿へ行幸なりて、又の日ことさらに二條內裏へ渡されけり。九條の攝政殿〈たゞいへ〉まゐり給ひて藏人めして禁色おほせらる。うへは八つにならせ給へばいとちひさくうつくしげにて、びんづらゆひて御引なほし、うち御ぞ、はりばかま奉れる御けしきおとなおとなしうめでたくおはするを花山院內大臣扶持し申さるゝを、故皇后宮の御せうと公守の君などはあはれに見給ひつゝ、故おとゞ宮などのおはせましかばとおぼしいづ。殿上に人々多く參り集まり給ひておものまゐる。その後上達部の拜あり。女房は朝餉よりすゑまで內大臣公親のむすめをはじめにて三十餘人なみゐたり。いづれとなくとりどりにきよげなり。廿八日よりぞ內侍所の御拜はじめられける。かくて新院、二月七日御幸はじめさせ給ふ。大宮院のおはします中御門京極實俊の中將の家へなる。御なほしから庇の御車、上達部殿上人のこりなくうへのきぬにて仕うまつらる。同じ十日、やがて菊の網代庇の御車奉り始む。この度は御烏ばう子