Page:Kokubun taikan 07.pdf/617

提供:Wikisource
このページは校正済みです

にいとあやなく失せ給ひぬ。冷泉太政大臣と申し侍りし事なり。入道殿の御心の中さこそおはしけめ。中宮も御服にてまかで給ひぬ。皇后宮は日にそへて御おぼえめでたくなりたまひぬ。姬宮若宮などいでものし給ひしかど、やがてうせ給へるを御門をはじめ奉りて誰も誰もおぼし歎きつるに、今年又その御けしきあればいかゞとおぼし騷ぎ、山々寺々に御いのりこちたくのゝしる。こたみだにげに又うちはづしてはいかさまにせむと、おとゞ母北の方もやすきいも寢給はず、おぼし惑ふ事かぎりなし。程近くなり給ひぬとて土御門殿の承明門院の御あとへうつらせ給ふ。世の中ひゞきて天下の人たかきもくだれるも司ある程のは參りこみてひしめきたつに、殿の內の人々はまして心もこゝろならずあわたゞし。おとゞかぎりなき願どもをたて、賀茂の社にもかの御調度どもの中にすぐれて御寳とおばさるゝ御手箱に、后の宮自ら書かせ給へる願文入れて神殿にこめられけり。それにはたとひ御末まではなくとも皇子一人とかや侍りけるとぞ承りし。まことにや侍りけむ。かくいふは文永四年十二月一日なり。例の物のけども顯れて叫びとよむさまいとおそろし。されども御いのりのしるしにやえもいはずめでたき玉のをのこ御子〈後宇多〉生れ給ひぬ。その程の儀式いはずとも推し量る多べし。うへもかぎりなき御志にそへていよいよおぼすさまに嬉しと聞し召す。おとゞも今ぞ御胸あきて心おちゐ給ひける。新院の若宮〈伏見院〉もこの殿の御孫ながら、それは東二條院の御心の中おしはかられ大かたも又うけばりやんごとなき方にはあらねば、萬聞しめしけつさまなりつれど、この今宮をば本院も大宮院もきはことにもてはやしかしづき奉らせ給ふ。こ