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この集の序にも「やまとしまねはこれ我が世なり、春風に德をあふがむとねがひ、和歌の浦もまた我が國なり、秋の月にみちをあきらめむ」とかや書せ給へりける。げにぞめでたきや。金葉集ならでは御子の御名のあらはれぬも侍らねど、この度はかのあづまの中務の宮の御なのりぞ書かれ給はざりける。いとやんごとなし。新古今の時ありしかばにや、竟宴といふ事行はせ給ふ、面白かりき。この集をば續古今と申すなり。又の年〈文永三〉あづまに心よからぬ事出で來て中務の御子都へのぼらせ給ふ。何となくあわたゞしきやうなり。御後見はなほ時賴朝臣なれば例のおそろしき事などはなけれど、宮は御子の惟康の親王に將軍をゆづりて文永三年七月八日のぼらせ給ひぬ。御くだりのぼり、六波羅に建てたりし檜皮屋ひとつあり。そこにぞはじめは渡らせ給ふ。いとしめやかに引きかへたる御ありさまを年月のならひにさうざうしう物心ぼそうおぼされけるにや、

  「虎とのみもちゐられしはむかしにていまはねずみのあなう世の中」。

院にもあづまの聞えをつゝませ給ひて、やがては御對面もなくいと心苦しく思ひ聞えさせ給ひけり。經任の大納言いまだ下﨟なりしほど御使に下されて「何事にか」と仰せられなどして後ぞ苦しからぬ事になりて、宮も土御門殿承明門院の御跡へ入らせ給ひけり。院へも常に御まゐりなどありて人々もつかうまつる。御遊などもしたまふ。雪のいみじう降りたる朝ぼらけに、右近の馬塲の方御覽じにおはして御心のうちに、

  「なほたのむ北野の雪のあさぼらけあとなきことにうづもるゝ身は」。