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の御子の御のぼりの代に、かの御子の三つになり給ふ若君近衞殿の姬君の御腹ぞかし。七月廿七日に將軍の宣旨かうぶらせ給ひて頓て四品し給ふ。經任の中納言を御使にてあづまへ下されなどして苦しからぬ御事になりぬとて、十月ばかりに故承明門院の御跡、土御門萬里小路殿へ御移ろひありて後ぞ院のうへ御母准后なども參りはじめて御對面あり。さるべき人々も參りつかうまつりなどして世のつねの御有樣にはなりにけれど、建長四年に十一にて御下ありし後今まで十五年がほど、にぎはゝしくいみじうもて崇められさせ給ひて、ゆゝしかりつる御住ひにひきかへ、物淋しく心細うなどおぼさるゝ折々もありけるにや、

  「虎とのみもてなされしはむかしにていまは鼠のあなう世の中」。

又雪のいみじうふりたるあした右近の馬塲の方御覽じにおはしましてよませ給ひける、

  「なほたのむ北野の雪の朝ぼらけ跡なきことにうづもるゝ身は」

などきこえき。大方この御子の歌のひじりにておはします事皆人の口に侍るべし。「枯野の眞葛霜とけて」なども人ごとにめでのゝしる御歌なるべし。又の年二月には龜山殿の淨金剛院にて十五日涅槃の儀式うつし行はせ給ふ。それより五日の御八講に人々才賢き限りを擇びめす。大殿二條殿にも西八條にて故東山殿の御ために八講行はせ給ふ。關白殿も光明峰寺にて結緣灌頂とり行はる。鷹司殿には昔の御北の方の十三年の法事とて大宮殿にていかめしき事どもいとなませ給ふ。中に繪像の阿彌陀、餘吾將軍の臨終佛なりけるを、惠心の僧都傳へられたりけるをもたせ給ひて供養し給ふ。常の佛の御さまには變り給ひて化佛の御光