Page:Kokubun taikan 07.pdf/601

提供:Wikisource
このページは校正済みです

をしけれ。老はかくうきものにぞ侍るや。世の中とかくさわがしとて年號かはる。三月十八日建長になりぬれど、猶火災しづまらで、廿三日またまた姉小路室町、唐橋の大納言雅親の家のそばより火いできて百餘町やけたり。おびたゞしともいふかたなし。寬元四年の六月にもおそろしき火侍りしかど、この度は猶それよりもこえたり。かの雅親の大納言の家ばかり、四方は皆燒けたるに殘れるいといとふしぎなりとぞ見る人ごとにあざみける。曉より出できたる火夜に入るまできえず。未の時ばかりに蓮華王院の御堂にもえつきければ俄に院も御幸なる。御道すがらもさながら烟をわけさせ給ふ。いと珍らかにあさまし。攝政殿も御車に參り給へり。三十三間の御堂の千體の千手一時に〈のイ〉ほのほにたぐひ給へば、不動堂ほくと堂も殘らず、寳藏鎭守ばかりぞ辛うじてうちけちにける。後白河院のさばかり御志深うおもほしたちて長寬二年供養ありし後はやんごとなき御寺なりつるに、あさましなどいふもおろかなり。又今熊野の鐘樓僧坊などおほくやけぬ。つじ風さへ吹きまじり吹きまじり炎の飛ぶ事鳥のごとし。又の朝までもえけり。その晝つ方さきの火もえつきて後、又雙林寺といふわたりに火いできて、なにがしの姬君の御もと、ふるき昔の跡皆けぶりになりぬ。その火消えて後又夕つかた岡崎わたりに火いできて、攝政殿御もとせうせう燒けゝり。又承明門院の近き程にも火いできて人々まゐりつどふ。中の御門より二條まで又火出できて十八町やけぬ。すべて廿三日よりつごもりに及ぶまで日をへ時をへて、あるは一日に二三度二むら三むらにわけてもえあがる。かゝる程に都は既に三分の二やけぬ。いといとめづらかなりし事