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廿具ありけるをおぼし出でけるにや、さまざまゆゝしき事どもにて過ぎぬ。この御るすの程に二條油の小路に火いできて、閑院殿のついがきの內なれば內膳屋燒けて、神代より傳れる御釜も燒けそこなはれけるをぞいとあさましき事には申し侍りし。かの釜昔は三つありけるを、一つをば平野、一つをば忌火、一つをば庭火と申しけるを、圓融院の御代永觀の頃二つはうせにけり。今一つ殘りたるに、かゝる事の出できぬるはいと宜しからぬわざなりとて神祇官に尋ねられ、古き事ども考へらる。平野といひけるを陰陽寮にすゑてみづのとの祭といふ事に用ゐけれど、中頃よりかの祭は絕えぬ。忌火といふにては六月十二月の御神事の御膳をば調じけり。庭火にて常の御膳をばつかうまつるにかゝればいとたいたいしき事にて、始めていもじに仰せらるべきかと申す。古きを損はれたる所ばかりをなほさるべきかとも、いろいろに定めかねられたり。入道おほきおとゞなどもふるきをなほさるべしと申さるとぞ聞えける。その頃宰相の三位の若宮〈宗尊親王の御事なり。〉御ふみはじめとて人々まゐりつどひ給ふ。七つにならせ給ふべし。關白殿をはじめ大臣上達部のこりなし。しはすの廿五日なり。文章の博士序奉らる。管絃の具召されて人々例のごと吹きあはせ給ふ。その後文臺めして詩の披講ありき。けんばいの儀式何事も保延のためしとぞ承りし。かくて年明けぬれば寶治も三年になりぬ。春たちかへるあしたのそらの光は思ひなしさへいみじきを、院うちのけしき誠にめでたし。攝政殿にも拜禮おこなはる。院の御まへは更にもいはず、大宮院にもあり。まづ冷泉萬里小路殿といふは鷲のをの大納言たかちかの家ぞかし。この頃院のおはしませば拜禮に人