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もしろく、都はなれて眺望そひたればいはむかたなくめでたし。峰殿の御舅あづまの將軍の御おほぢにて、よろづ世の中御心のまゝに、飽かぬ事なくゆゝしくなむおはしける。今の右のおとゞをさをさ劣り給はず、世のおもしにていとやんごとなくおはするに、女御さへ御おぼえめでたく、いつしかたゞならずおはすると聞ゆる、奧ゆかしき御程なるべし。京にはさまざまめでたき事のみ多かるに、かの佐渡の島には御惱み聞えし程なく九月十二日かくれさせ給ひぬ。世の中の改りしきざみおぼしよる事どもありしも、空しうへだゝりのみはてぬる世をいと心細う聞し召しけるに、そこはかとなく御惱みなどおもるやうにて失せ給ひにけるとぞ聞えし。四十六にぞならせ給ひける。いとあはれなる世の中なるべし。かくて年かはりぬれば寬元元年ときこゆ。五月廿六日より最勝講始めておこなはる。關白をはじめ上達部殿上人殘りなく參り給ふ。左右大將〈たゞいへ、さねもと、〉の車陣にたつるとて爭ひのゝしりていみじうおそろし。右は上ず左は下﨟にておはしければ、御前どもかたみにひしめきてあさましかりけり。されども相向へて立てゝのちぞしづまりにける。又の日は久我の前內大臣〈みちみつ〉鳥羽の御家にて八講し給ふとて上達部多くかしこにつどひ給ふ。おとゞは更にもいはず、堀川大納言〈ともざね〉、御子の通忠の大納言殿、土御門の大納言〈あきさだ〉、通成の三位中將、通行の宰相中將などすべて一門の人々びりやうにておはして、多く高欄につき給ふ。ほとほと內の御八講にも劣らず見えたり。殿上人はまして數しらず。雅通のおとゞの書きおき給へるものに、公務の日なりとも暇を申してこの八講にあふべしとかや侍るなるに、誠にかゝるおほやけ事の折ふ