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もやと思ひて、なえばめるゑぼうし直衣にてさぶらひ給ひけるが、中門にいでゝ對面したまふ。よしかげはきり戶のわきにかしこまりてぞ侍りける。「阿波の院の御子、御位に」と申していでぬ。院の中の人々上下夢のこゝちして物にぞあたりまどひける。仁治三年正月十九日の事なり。世の人の心ちみなおどろきあわてゝ、おしかへしこなたに參りつどふ馬車の響騷ぐ世のおとなひを、四つじ殿にはあさましうなかなか物おぼしまさるべし。またの日やがて御元服せさせ給ふ。ひきいれには左大臣〈よしざね〉參り給ふ。理はつは頭辨定嗣仕うまつりけり。御いみな邦仁御年二十三。その夜やがて冷泉萬里小路殿へ移らせ給ひて、閑院殿より劔璽など渡さる。踐祚の儀式いとめづらし。その後こそ閑院殿には追號のさだめ御わざの事などさたありけれ。廿五日に東山の泉涌寺とかやいふほとりにをさめ奉る。四條の院と申すなるべし。やがてかの寺に御庄などよせて今に御菩提を祈り申し侍る〈四字奉るイ〉もさきの世のゆゑありけるにや。この御門いまだ物などはかばかしくのたまはぬ程の御齡なりける時、誰とかや「さきの世はいかなる人にてかおはしましけむ」と唯何となく聞えたりけるに、かの泉涌寺の開山のひじりの名をぞたしかに仰せられたりける。又人の夢にも、この御門かくれさせ給ひて後、かの上人「われ速に成佛すべかりしを、よしなき妄念をおこして今一ど人界の生をうけて、帝王の位にいたりてかへりて我が寺を助けむと思ひしにはたしてかくなむ」とぞ見えける。まことに〈のイ〉その餘執の通りけるしるしにや、御庄どもゝよりけむとぞ覺え侍る。さて仁治三年三月十八日御即位、よろづあるべき限りめでたくて過ぎもてゆく。嘉禎三年よりはをか