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くすみて思ひいでむは今すこし志深くや」とて我が御歌をかちとつけさせ給へる、いとあはれにやさしき御事なめり。かやうのはかなしごと、又は阿彌陀佛の御勤などに紛らはしてぞおはします。又御手ならひのついでに、

  「われながらうとみはてぬる身のうへに淚ばかりぞおもがはりせぬ。

   ふる里は入りぬるいその草よたゞ夕しほみち〈かけイ〉てみらくすくなき」。

この浦にすませ給ひて十九年ばかりにやありけむ、延應元年といふ二月廿二日むそぢにてかくれさせ給ひぬ。今一度都へ歸らむの御志ふかゝりしに、遂に空しくてやみ給ひにし事いと忝く哀になさけなき世も今さら心うし。近き山にて例の作法になし奉るも、むげに人ずくなに心ぼそき御ありさまいとあはれになむ。御骨をば能茂といひし北面の入道して御供にさぶらひしぞ頸にかけ奉りて都にのぼりける。さて大原の法華堂とて、今もむかしの御さうのところどころ三昧料に寄せられたるにてつとめ絕えず。かの法華堂には修明門院の御沙汰にて、故院わきて御心とゞめたりし水無瀨殿をわたされけり。今はのきはまでもたせ給ひけるきりの御數珠などもかしこにいまだ侍るこそ哀にかたじけなく拜み奉るついでのありしか。はじめは顯德院と定め申されたりけれど、おはしましゝ世の御あらましなりけるとて仁治の頃ぞ後鳥羽院とは更に聞えなほされけるとなむ。

     第四 三神山

さても源大納言通方の預り奉られし阿波院の宮はおとなび給ふまゝに御心ばへもいときや