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うけたまはりて地頭職に我が家のつはものどもをなし集めけり。この日本國の衰ふる始めはこれよりなるべし。さてあづまにかへり下るころ、上下いろいろのぬさ多かりしなかに、年ごろもいのりなどしたまひにし吉水僧正、かの長歌の座主のたまひつかはしける、

  「あづまぢのかたになこその關の名は君を都にすめとなりけり」。

御かへし、賴朝、

  「都には君も〈にイ〉あふさかちかければなこその關はとほきとをしれ」。

その後もまたのぼりて東大寺の供養にもまうでたりき。かくて新院の御位のはじめつかた、正治元年正月あづまにてかしらおろして、おなじき十三日に年五十三にてかくれにけり。治承四年より天の下にもちゐられて、はたとせばかりや過ぎぬらむ。北の方はさきに聞えつる北條四郞時政がむすめなり。その腹にをのこ二人あり。太郞をば賴家といふ。おとゝをば實朝ときこゆ。大將かくれてのち、兄はやがてたちつぎて、建仁元年六月廿二日從二位、同日將軍の宣旨をたまはる。またの年左衞門督になさる。かゝれども少しおちゐぬ心ばへなどありて、やうやうつはものどもそむきそむきにぞなりにける。時政は遠江守といひて故大將のありし時より私の後見なりしを、まいて今はうまごの世なれば、いよいよ身重くいきほひそふ事かぎりなくて、うけばりたるさまなり。子二人あり。太郞は宗時といふ。次郞は義時といへり。次郞は心も猛くたましひまされるものにて、左衞門督をばふさはしからず思ひて、弟の實朝の君に附きしたがひて思ひかまふる事などもありけり。かうは日にそへて人にもそむ