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條の院の御時平治のみだれに、伊豆の國蛭が小島へ流されし兵衞のすけ賴朝は淸和の御門より八代のながれに六條の判官爲義といひし者のうまごなり。左馬頭義朝が三男〈郞イ〉になむありける。西八條の入道おとゞ、やうやう榮花衰へむとて後白川院をなやまし奉りしかば、安からずおぼされて、かの賴朝を召しいでゝ軍を起し給ひしに、しかるべき時やいたりけむ平家の人々は、壽永の秋の木がらしに散りはてゝ、遂にわたつ海の底のもくづと沈みにし後、賴朝いよいよ權をほどこして更に君の御後見を仕うまつる。相摸の國鎌倉の里といふ所に居りながら、世をばたなごゝろの中に思ひき。皆人しり給へることなれば、今さらに申すもなかなかなれど、院のうへ位に即かせ給ひしはじめより世のかためとなりて、文治元年四月二のはしをのぼりしも、八島の內のおとゞ宗盛をいけどりの賞と聞ゆ。建久の初めつかた都にのぼる。その勢のいかめしき事いへばさらなり。道すがらあそびものども參る。遠江の國橋本の宿につきたるに、例の遊女おほくえもいはずさうぞきて參れり。賴朝うちほゝゑみて、

  「橋本の君になにをか渡すべき」

といへば、梶原平三景時といふ武士とりあへず、

  「たゞそま山のくれであらばや」。

いとあいだてなしや。馬くらこんくゝりものなど運び出でゝひけば、喜びさわぐ事かきりなし。その年の十一月九日權大納言になされて、右近大將をかねたり。しはすの朔日ごろよろこび申して、おなじき四日やがてつかさをば返し奉る。この時ぞ諸國の總追ぶく使といふ事