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院のうへおなじ御心に和歌の道をぞ申し行はせ給ひける。文治の頃千載集ありしかど、院いまだきびはにおはしましゝかばにや御製も見えざめるを、當代位の御程に又集めさせ給ふ。土御門の內のおとゞの二郞君、右衞門督通具といふ人をはじめにて、有家の三位、定家の中納言家隆雅經などにのたまはせて、昔より今までの歌をひろく集めらる。おのおの奉れるうた〈へイ〉を、院の御まへにて自らみがきとゝのへさせ給ふさま、いとめづらしくおもしろし。この時も先に聞えつる攝政殿とりもちて行はせ給ふ。大かたいにしへならの御門の御代に始めて右〈左〉大臣橘の朝臣勅を承りて、萬葉集を撰びしよりこのかた、延喜のひじりの御時の古今集、友則、貫之、躬恆、忠岑、天曆のかしこかりし御代にも、一條攝政殿〈謙德公〉いまだ藏人の少將など聞えける頃、和歌所の別當とかやにて、梨壺の五人に仰せられて、後撰集は集められけるとぞ。ひがぎゝにや侍らむ。そののち拾遺集は花山の法皇の自ら撰ばせまこへるとぞ。白河院位の御時は、後拾遺集通俊治部卿うけたまはる。崇德院の詞花集は、顯輔三位えらぶ。又白川の院おりゐさせ給ひてのち、金葉集重ねて俊賴の朝臣におほせて撰ばせ給ひしこそ、はじめ奏したりけるに輔仁の親王の御なのりを書きたる、わろしとてかへされ、又奉れるにも何事とかやありて三度奏して後こそをさまりにけれ。かやうのためしもおのづからの事なり。おしなべては撰者のまゝにて侍るなれど、こたみは院のうへみづから和歌の浦におりたちあさらせ給へば、まことに心ことなるべし。この撰集よりさきに千五百番の歌合せさせ給ひしにもすぐれたるかぎりを撰ばせ給ひて、その道のひじりたち判じけるに、やがて院も