Page:Kokubun taikan 07.pdf/528

提供:Wikisource
このページは校正済みです

鳥羽院の御位の御程までをしるしたりとぞ見え侍りし。その後のことなむいとおぼつかなくなりにけり。おぼえ給へらむ所々にてものたまへ。こよひ誰も御伽せむ。かゝる人にあひ奉れるもしかるべき御契あらむものぞ」」などかたらへば「「そのかみの事はいみじうたどたどしけれど、まことに事のつゞきを聞えざらむもおぼつかなかるべければ、たえだえに少しなむ。ひが事ども多からむかし。そはさしなほしたまへ。いとかたはらいたきわざにも侍るべきかな。かのふるき事どもにはなぞらへ給ふまじうなむ」」とて、

  「「おろかなる心や見えむます鏡ふるきすがたにたちはおよばで」」

とわなゝかしいでたるもにくからず、いとこだいなり。「「さらば今のたまはむ事をも又書きしるして、かのむかしの面影にひとしからむとこそはおぼすめれ」」といらへて、

  「「今もまたむかしをかけばます鏡ふりぬる代々の跡にかさねむ」」。

     第一 おどろのした

「「御門はじまり給ひてより八十二代にあたりて後鳥羽院と申すおはしましき。御いみなは尊成、これは高倉院第四の御子。御母は七條院と申しき。修理大夫信隆のぬしのむすめなり。高倉の院御位の御時、后の宮の御方に兵衞督の君とて仕うまつられしほどに、忍びて御覽じはなたずやありけむ、治承四年七月十五日に生れさせ給ふ。その年の春の頃、建禮門院后宮と聞えし御腹の第一の御子〈安德天皇〉三つになり給ふに位を讓りて、御門はおり給ひにしかば、平家の一ぞうのみいよいよ時の花をかざしそへて、華やかなりし世なればけちえんにももてな