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いでられてまめやかにかたらひつゝ「「昔の事の聞かまほしきまゝに、年のつもりたらむ人もがなとおもひ給ふるに、うれしきわざかな。少しのたまはせよ。おのづからふるき歌など書きおきたるものゝ片はし見るだに、その世にあへる心ちするぞかし」」といへば、すげみたる口うちほゝゑみて「「いかでか聞えむ。若かりし世に見聞き侍りしことは、こゝらの年頃にむば玉の夢ばかりだになくおぼゝれて何のわきまへか侍らむ」」とはいひながらけしうはあらず、あへなむと思へるけしきなれば、いよいよいひはやして「「かの雲林院の菩提講に參りあへりし翁の言の葉をこそ假名の日本紀にはすめれ。又かの世繼がうまごとかいひしつくもがみの物語も人のもてあつかひぐさになれるは、御ありさまのやうなる人にこそ侍りけめ。なほのたまへ」」などすかせば、さは心うべかめれど、いよいよ口すげみがちにて「「そのかみはげに人の齡もたかく、きもつよかりければ、それに隨ひてたましひもあきらかにてや、しか聞えつくしけむ。あさましき身はいたづらなる年のみつもれるばかりにて、昨日今日といふばかりの事をだに、目も耳もおぼろになりにて侍れば、ましていと怪しきひが事どもにこそは侍らめ。そもさやうに御覽じ集めけるふる事どもはいかにぞ」」といふ。「いさたゞおろおろ見及びしものどもは水鏡といふにや。神武天皇の御代よりいと荒らかにしるせり。その次には大鏡、文德のいにしへより後一條の御門まで侍りしにや。又世繼とか四十條のさうしには延喜より堀川の先帝まではすこしこまやかなる。又なにがしのおとゞの書き給へると聞き侍りし今鏡には後一條より高倉院までありしなめり。まことやいや世繼は隆信朝臣の、後