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むと申す人あるべし。誠に奈良の都の時にはありけむとおぼえ侍ることは、そのかみ人丸といふ集所々きゝ侍りしに、天平勝寶五年の春三月、左大臣橘卿の家に、諸卿大夫たち宴し給ひけるに、あるじのおとゞ問ひてのたまはく、古歌にも、

  「あさもよひきの關守がたづか弓ゆるす時なくまづゑめるきみ」

といふ歌のはじめ、いかゞと侍りければ、式部卿石川卿こたへ給へることなど侍るは、高野姬のみかどの御時にこそ侍るなれ。そのほどまでとしたけて侍れども、大同の御時まではいかゞはさのみも侍らむ」」といふに、「「古今序に、「いにしへよりかく傳はるうちに、ならの御時よりぞひろまりける。かの御世や、歌の心をしろしめしたりけむ。かの御時人丸なむひじりなりける。かゝりけるさきの歌をあはせてなむ、萬葉集となづけられたりける」とかけるは、人丸が世にえらばれたるやうにこそ聞こゆれ」」といへば、「「誠に心え難きことに侍る。そのあひだに、詞多く侍る上におしはかり思ひたまふるに、貫之ひがことをかくべきにもあらず。たとひあやまちたりとも、みかどの御覽じとがめずやは侍らむ。しかあれば古今の詞につきてなずらへ試みるに、ならの御時よりひろまりたると侍る、赤人人丸があひ奉れる御世と聞こえたり。「この人々をおきて又すぐれたる人々も吳竹のよゝに聞こえかた絲のよりよりに絕えずなむありける。さきの歌をあはせてなむ、萬葉集となづけられたりける」といふは赤人、人丸が、のちの世々に、よめる歌どもをあはせて、大同の御代には作られたりともや心得べからむ。ならの帝といふは、同名におはしませばひとつことなるやうなれども、萬葉集の