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はゞ大同の御代と聞こえたるに、百とせ餘りといふはさきの事ときこゆる上に、人丸はあがりたる世の人と見えたれば、えなむあるまじき。いかゞ」」と問へば、「「誠におぼつかなきことを、かくこまかに尋ねさせ給ふこそいと心にくゝ」」とて、「「ならのみかどゝ申さむこと大同の御世のみにもあらずや侍らむ。元明天皇奈良の都に、和銅三年の春のころ、始めて遷らせ給ひけるに、長屋の原に御こしとゞめて、藤原のふるさとを顧み給ひて、

  「とぶ鳥のあすかの里をおきていなば君があたりは見えずかもあらむ」

とよませ給へり。はしの目錄にも、寧樂の御歌とてかきつらねて侍るめり。寧樂はならのといひ名づくるなるべし。かくて後七八代は、奈良の都にぞおはしましける。その御世どもにも侍らむ。ならのみかどゝ申す御名は、三代おはしますかと申す人もありとぞ聞き侍りし。柏原の御門の御時長岡の京に渡り給ひて、十年ばかりありてこの平の京には遷らせ給ひて、その御子の大同のみかども、この京の後なれども、平城とはおりたまひてのちべちの御名なるべし。萬葉集に、人丸が歌どもの入りたると聞き侍りしにも、柿の本人丸集にいでたりなどいひて、其の世の人とはきこえずなむ侍るうちに、奈良の京のさきよりも、人丸が歌は多く見え侍るめり。淨見原のみかどの、吉野の宮にみゆきしたまひけるにもよめるうた侍るめり。輕の皇太子、安騎野に宿り給ふ時の歌とても侍るめり。文武の御事なるべし。又人丸が讃とて、いづれの博士が作られたるには、持統文武の聖朝につかへ、新田高市の皇子にあへりとなむ侍るめる。かくて奈良の御世までありて、聖武の御時などにもあひ奉りけるにやあら