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とよめりけるとぞ。たはぶれごとのやうなれども、ことざまのをかしく聞こえ侍れば、申し侍るになむ。つのかみ範永といひし人は、何れの山里にか、夕ぐれに庭におりて、とゆきかうゆきしあるきて、「あはれなるかなあはれなるかな」とたびたびながめければ、帶刀節信といひしが、「日くるれば、ところどころの鐘の聲」とつけたりければ、「あなふわい」となむいひける。そのかみ井手のかはづをとりて飼ひける程に、そのかはづ身まかりければほしてもたりけるとかや。

いづれの齋の宮とか。人の參りて、今樣歌ひなどせられけるに、末つ方に四句の神歌うたふとて、「うゑきをせしやうは、鶯すませむとにもあらず」と歌はれければ、心とき人など聞きてはゞかりあることなどや、出でこむとおもひけるほどに「くつくつかうなるなめすゑて、染紙よませむとなりけり」とぞうたはれたりけるが、いとその人うたよみなどには聞こえざりけれども、えつるみちになりぬればかくぞ侍りける。この事刑部卿とか語られ侍りしに、侍從大納言と申す人も侍りしが、さらばことわりなるべし。

菩提樹院といふ寺に、ある僧房の池のはちすに、鳥の子をうみたりけるをとりて、籠にいれて飼ひけるほどに、うぐひすの籠より入りてものくゝめなどしければ、うぐひすの子なりけりと知りにけれど、子はおほきにて親にも似ざりければ、怪しく思ひけるほどに、子のやうやうおとなしくなりて、ほとゝぎすと鳴きければ、むかしより云ひ傳へたるふるきこと誠なりと思ひて、ある人よめる、