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らの小舍人とかに帶を借りてぞ、公事は勤められ侍りける。池亭の記とてかゝれたるふみにも「身は朝にありて心は隱にあり」とぞ侍るなる。中務の宮のもの習ひ給ひけるにも、ふみすこし敎へたてまつりては、目を閉ぢて佛をねんじ奉りてぞ怠らず勸め給ひける。かくて年をわたりける程に、年たけてぞかしらおろして、橫河にのぼりて法文ならひ給ひけるに、增賀ひじりのまだよがはに住み給ひけるほどにて、止觀の明靜なること前代にいまだ聞かずとよみ給ひける。この入道たゞ泣きになきければ、ひじり「かくやはいつしか泣くべき」とて、こぶしを握りて打ち給ひければ、われも人も事にがりて立ちにけり。又程經て、「さてもやは侍るべき。かのふみ受け奉り侍らむ」と申しければ、又さきの如くに泣きければ、またはしたなくさいなみければ、後のことばもえ聞かで過ぐるほどに、又懲りずまに御けしきとり給ひければ、又さらによみ給ふにも、同じやうにいとゞ泣きをりければこそ、ひじりも淚こぼして、「誠に深き御法の尊くおぼゆるにこそ」とてあはれがりてそのふみ靜に授けたまひけり。さてやんごとなく侍りければ、御堂の入道殿も御戒など受けさせ給ひて、ひじりみまかりにける時は、御諷誦などせさせ給ひてさらし布もゝむら給ひける、うけぶみは、三河のひじりたてまつりて、秀句などかきとゞめ給ひけり。

  「昔隋煬帝ノ智者ニ報ゼシ、千僧ヒトツヲアマシ、今左丞相ノ寂公トブラフ、サラシ布モヽチニミテリ」

とぞかゝれはべりける。その三河のひじりも博士におはして、大江の氏のかんだちめの子に