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に子の有國をば召すべきなり。その故は道の者にもあらで、たはやすく此の祭を行ふ科あるべし」と定めありつるを、ある人の申されつるは、「孝養の志ある上に、遠き國に道の人の然るべきもなければ重き罪にもあらず。有國めさるまじとなむ覺ゆる」と申さるゝ人ありつるに因りて、皆人いはれありとて、おや子ともにゆるされぬるとなむ侍りけるとぞ、その流れの人の、才も位も高くおはせし人の語られ侍りける。

一條の院の御時などにや侍りけむ、六位の史を經てかうぶり賜はれるが、縣召に、心高く播磨の國の司望みければ、こと人をなされけるに、たびたび墨をすりてかきつけらるれども、おほかた文字のかゝれざりければ、いかゞすべきと定められけるに、播磨の國望む申しぶみを、皆とりあつめて、かゝるべき定めありて、選びすてたる申しぶみどもをも、おほつかの中よりもとめ出でゝ皆かゝれけるに、かの史の大夫相尹とかいふが名の、あざやかに書かれたりけるとなむ。齊信民部卿の宰相におはしけるとかや、その座にて見給ひければ、ちひさき手して筆のさきをうけてかゝせぬと見給ひける。聖天供をして祈りけるしるしになむありける。その供は觀修僧正とかのせられけるとかや、たしかにも覺え侍らず。かく聞き侍りしを又人の申しゝは、一條の院の御時、長德四年八月廿五日、外記の巡にて、佐伯公行といふ者こそ播磨守にはなりたれ。かの國の史生とかにてありけるとかや。相尹といふものは、なりたることも見えずと申す人もありきとなむ。

     からうた