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  「君なくて歸る波路にしをれこし袂を人の思ひやらなむ」

と侍りけるなむ、さこそはといと悲しく推し量られ侍りし。院のおとうとの仁和寺の宮おはしましゝ程は、とぶらはせ給ふと聞こえしに、宮もかくれ給ひて、心ぐるしく思ひやり奉るあたりなるべし。その遠くおはしましたりける人のまだ京におはしけるに、白河に池殿といふ所を人の造りて、「御覽ぜよ」など申しければ、わたりて見られけるにいとをかしく見えければ、かきつけさせ給ひけるとなむ。

  「音羽川せき入れぬ宿の池水も人の心は見えけるものを」

とぞきゝ侍りし。讃岐の院の皇子は、それも仁和寺の宮におはしますなる、法印にならせ給へるとぞ聞こえさせたまふ。それも眞言よく習はせ給ひて勤め行はせ給へりとぞ。上西門院御子にし申させ給へるとぞ。其の御母は師隆の大藏卿の子に、參河の權の守と申す人坐しけるむすめの、讃岐のみかどの御時、內侍のすけにて侍はれしが生みたてまつり給へるとぞ聞えさせ給ふ。讃岐の法皇かくれさせ給へりける頃、「御服はいつか奉る」と御室より尋ね申させ給へりければ、

  「うきながらその松山の形見には今宵ぞ藤の衣をばきる」

とよませ給へりける。いとあはれに悲しく。又御行ひはてゝやすませ給ひけるに、嵐はげしく瀧の音むせびあひていと心ぼそく聞こえけるに、

  「夜もすがら枕におつる音きけば心をあらふ谷川のみづ」