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のありけるにか失ひ奉りたるとて、おやも罪かぶりて都にもすまざりき。又德大寺の左のおとゞの御むすめとて、鳥羽の女院に侍ひ給ひけるも、女三のみこ生み給ひてかすがの姬宮ときこえ給ふ。冷泉の姬宮と申すにや、其の母を春日殿と申すなるべし。又勢賀院の姬宮、齋院のひめ宮、高松の宮など聞こえさせ給ふも、おはしますなるべし。鳥羽の院の宮たちは、をとこ女、きさきばら、たゞのなど取り加へ奉りて、男宮八人、女宮八九人ばかりおはしますなるべし。讃岐の院の一の御子ときこえ給ひしは重仁親王と申しけるなるべし。その御母院に具し奉りて、遠くおはしたりけるが歸りのぼり給へるとぞきこえ給ふ。みかど位におはしましゝ時、きさいの宮、一の人の御むすめにておはしますに、うちの女房にて、かの御母、宮仕へ人にてさぶらひ給ひしが、殊の外にときめき給ひしかば、きさきの御方の人はめざましく思ひあひて、人の心をのみはたらかし、世の人もあまりまばゆきまで思へるなるべし。さりとて御後見のつよきもおはせず。たゞ大藏卿行宗とてとし七十ばかりなるが歌よみによりて、親しく仕うまつりなれたるを、おやなどいひて、兵衞の佐などつけ申したるばかりなればさるべき方人もなし。誠の親はをとこにはあらで、紫の袈裟など賜はりて、白河の御寺のつかさなりけり。それもうせて年へにけり。然るべき人の子なりけれど、をとこならねばかひなかるべし。常にさぶらふ何の中將などいふ人のかたごゝろあるなども、目をそばめらるゝ樣にてはしたなくなむありける。されど類ひなき御心ざしをさりがたきことにて過ぐし給ふ程にをのこ君生みいだし給へれば、中宮にはまだかゝることもなきにいと珍らしく、いとゞ安か