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こえし、むすめの生みたてまつれるとぞ。又仁和寺の花藏院の大僧正と申しゝは、近江守隆宗と聞えしがむすめのはらとぞ聞え給ひし。僧正御身の沈み給へることをおもほしける時、よみたまへりける、

  「さみだれのひまなき比のしづくには宿もあるじも朽ちにけるかな」

とぞ聞え侍りし。身をしるあめ、時にもあらぬしぐれなどや、御袖にふりそひたまひけむといとあはれに聞こえ侍り。女宮は大宮の齋院ときこえ給ふおはしき。やがて彼の大宮の女房の生みたてまつれりけるとなむ。又さきの齋宮も堀河の院の御むすめときこえ給ふ。まだ此の比もおはするなるべし。鳥羽の院の宮は女院ふたところの御腹の外に、三井寺の六宮、山の七宮とておはします。御はゝ石淸水の流れとなむ聞きたてまつりし。俊賴の撰集に鹿の歌など入りて侍り。光淸法印とかいひける別當のむすめとなむ。小侍從などきこゆるは小大進が腹にて、これはさきのはらからなるべし。白河の院の御時より近く侍ひて、鳥羽の院には御子あまたおはしますなるべし。又その同じはらにあや御前ときこえさせたまふ、御ぐしおろして雙林寺といふ所にぞおはしますなる。寺の宮はひととせうせ給ひにき。やまのは法印など申しゝ、親王になり給ふとぞ。又宰相の中將家政ときこえし御むすめ、待賢門院におはしけるも鳥羽の院の御子生み奉りたまへりし、吉田の齋宮と申しき。それもうせ給ひて八九年にもやなり侍りぬらむ。あまにならせ給ひて、智惠深く尊くきこえさせ給ひき。その御母こそはあさましくてうせ給ひにしか。河內守なにがしとかいひしが子なる男の、いかなる事