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「よろこびもなくうれへもなし世上の心」とかや作り給へりけるを、中御堂と申しておはせしがのたまひけるは、「うれへこそあれ」とのたまはせけれど、位には必しもみかどの御子なれどつぎ給ふことならねば、ものしり給へる人はなげきとおぼすべからず。かの仁和寺のみやの、利口にこそあれ。何事かは御のぞみもあらむな。

     花のあるじ

三の宮の御子は、中宮の大夫師忠の大納言の御女のはらに、花園の左のおとゞとておはせしこそ、光る源氏などもかゝる人をこそ申さまほしくおぼえ給へしか。まだ幼くおはせし程は若宮と申しゝに、御能も御みめも然るべき事と見えて、人にもすぐれ給ひて、常にひきもの、ふき物などせさせ給ひ、又詩つくり歌などよませ給ひけるに、庭の櫻盛りなりける頃、濃き紫の御指貫に直衣すがたいとをかしげにて、われもよませ給ひ人にもよませさせ給ふとて、

  「をしと思ふ花のあるじを置きながら我がもの顏にちらす風かな」

とよみ給ひたりければ、父の宮見たまひて、「まろを置きながら、花のあるじとは、わか宮はよみ給ふか」などあいし申し給ひけるとぞ人のかたり侍りし。御とし十三になり給ひし時、うひかぶりせさせ給ひしは、白河の院の御子にし申させ給ひて、院にて基隆の三位の、播磨守なりし、初元結したてまつり、右のおとゞとて久我のおとゞおはせし、御かうぶりせさせたてまつり給ひけり。御みめの淸らかさ、おとなのやうにいつしかおはして、見たてまつる人、よろこびの淚もこぼしつべくなむありける。元永二年にや侍りけむ、仲の秋のころ、御と