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東宮と申して、延久三年二月に生まれ給ひて、同四年十二月に御年ふたつと申しゝ、東宮にたち給ひき。永保元年八月に御元服せさせ給ふ。應德二年十一月八日、十五におはしましゝに、かくれさせ給ひにき。平等院の僧正は女御の御せうとなれば、東宮の御忌にこもり給ひて、御はてすぎて、人々ちりけるに、常陸のめのとおくり給ふときこえ侍りし、

  「おもひきや春のみやびとなのみして花よりさきに散らむものとは」

とよみ給ひたりける。返し御めのと、

  「花よりもちりぢりになる身をしらでちとせの春とたのみつるかな」

とぞきゝ侍りし。これは白河の院の異はらの御おとうと、後三條の院の第二の御子なり。東宮とおなじはらに第三の御子おはしき。輔仁親王と申しき。延久五年正月に生まれ給へり。承保二年十二月に親王の宣旨かぶり給ふ。この御子はざえおはして詩などつくり給ふこと、むかしの中務の宮などのやうにおはしき。歌よみたまふこともすぐれ給へりき。圓宗寺の花を見たまひて、

  「植ゑおきし君もなき世にとしへたる花や我が身のたぐひなるらむ」

とよみ給へるこそいとあはれにきこえ侍りしか。かやうの御歌ども、むくのかみの選びてたてまつれる金葉集に、輔仁のみことかきたりければ、白河の院は、「いかにこゝに見むほど、かくはかきたるぞ」と仰せられければ、三の宮とぞかきたてまつれる。御中らひはよくもおはしまさゞりしかども、御おとうとなればなるべし。詩などは數しらずめでたく侍るなり。