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には「きんざうはうとうゐんの僧正の御坊に」とぞありける。かんなならば、きんざうなくてもあるべけれど、えかき給はぬ餘りにやありけむ、言のはもえ聞え給はざりけり。唯車をぞなべてよりよくしたてゝ、牛雜色淸げにてありき給ひける。車などよくするは、まさなきことゝて、はげあやしくなれども、俄にかきすゑたるこそ、然るべき人はさもすると申すこともあるべし。これも亦一つのやうにて、つやゝかにし給ひけるにこそ。風などの重くおはしけるにや、ひがことぞ常にしたまひける。雨のふるに「車ひき入れよ」といはむとては「車ふる、時雨さしいれよ」と侍りければ、車のさまざまそらより降らむ、いと恐ろしかるべしなど思ひあへりける。かやうのことを堀河の院きこしめして「ひがことこそふびんなれ。祈りはせぬか」と仰せられければ、御返事申されけるほどに、鼠の走りわたりければ、「されば等身の鼠作らせて候ふ」と申されければ、「おほ方いふにも足らず」となむ仰せられける。これは信濃守伊綱の女のはらにおはするなるべし。同じはらに信雅のみちのくの守とておはしき。加賀守家定とて、ひさしくおはせしが、後にみちのくにはなり給へりしなり。その子は成雅の君とて、知足院の入道おとゞ、寵し給ふ人におはすと聞こえき。後には近江の中將ときこえし程に、都の亂れ侍りしをり、左大臣殿のゆかりに法師になりて、越の方に流され給ふと聞こえし、歸りのぼり給へるなるべし。その成雅の中將の兄にか弟かにて、房覺僧正とて三井寺に驗者おはすとぞきこえ給ふ。又六條殿の御子に、因幡守惟綱のむすめの內侍のはらに、雅兼の治部卿と申す中納言おはしき。才學すぐれ給ひ、公事につかへ給ふことも、昔もあ