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やおはすらむ。又此の御兄に、つのかみ廣綱のむすめのはらに、山の座主明雲權僧正とて、いまにおはすなるこそ、世の末には、かやうなる天臺座主はおはしがたく承れ。我が道の法文をも深く學び給ふ。かたがた世にたふとくて、御心ばへも重くおはするにや、山のうへこぞりてもちゐ奉りたるとかや。うちつゞきたもつ人、ありがたくきこえ給ふに、大衆など鐘ならして、起る事だに侍らぬとかや。又太政のおとゞの御子にては、右大臣雅定と申して、さきにも舞人のこと申し侍る、中の院のおとゞとておはしき。御母は加賀の兵衞とかいひしがいもうとにて、下らう女房におはせしかど、兄の大納言よりもおぼえもおはしもてなし申し給ひき。此のおとゞは、ざえもおはして、公事などもよくつかへ給ひけり。笙の笛などすぐれ給へりける、時元とて侍りしを、少しもたかへずうつし給へるとぞ。まじりまろといふ笛をも傳へ給へり。まじりまろとはからの竹、やまとの竹の中に、すぐれたるねなるを、選び作りたるとなむ。まじりまろといふ笙の笛は二つぞ侍るなる。時元が兄にて時忠といひしも作り傳へ侍るなり。むらといひて、稻荷祭などいふ祭わたるものゝ、吹きてわたりける笛の、響き殊なる竹のまじりてきこえ侍りければ、棧敷にて、時忠よびよせ、「かゝるはれには、同じくはかやうの笛をこそ吹かめ」とて我が笛にとりかへて、「我をば見知りたるらむ。後にとりかへむ」といひければ、むらのをのこ喜びて、「皆見知り奉れり」とて、とりかへたりけるを、すぐれたる響きありける竹をぬきかへて、えならず調べたてゝたびたりければ、喜びてかへしえてなむ侍りける。そのまじりまろは、時忠が子の時秀といひしが傳へ侍りしを、子も侍らざ