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させ給ひて、供養したてまつらせ給ふ。一家の上達部殿上人、太政のおほいどの、內大臣と申しゝより始めてわたり給ひて、御佛供養の後、舞人樂人など左右の舞ひなどして、後には御あそびせさせ給ふ。御みき聞こえかはしなどして、いひしらずめでたく聞きたまへりしが、中の院の大將若君におはしける、十八ばかりにて、笙の笛吹き給ひけるこそ、その日のめづらしく淚もおとしつべきことに侍りけれ。このおとゞよりは、六條大臣殿は、さきにうせ給ひにしかば、その御子の太政のおとゞは、堀河のおとゞに何事も尋ね習ひ給ひて、親子の如くなむおはしける。それにひかれて、こときんだち皆靡き申し給ひけりとぞきゝ侍りし。

     根あはせ

六條の右のおとゞの公達は、まづ堀河のみかどの御母中宮、その御はらに前坊と堀河のみかどゝをのこ宮生みたてまつり給へり。女宮は媞子の內親王と申すは、白河の院の第一の御むすめ、伊勢のいつきにおはしましゝ、中宮うせさせたまひにしかば、出でさせ給ひて、堀河のみかどの姉にて、御母きさきになぞらへて、皇后宮に立たせ給ふ。院號ありて郁芳門院と申しき。寬治七年五月五日、あやめの根合せさせ給ひて、歌合の題、菖蒲、郭公、五月雨、祝、戀なむ侍りける。こまかには歌合の日記などに侍るらむ。判者は六條のおほい殿せさせ給へり。周防の內侍、戀の歌、

  「こひわびてながむるそらのうき雲や我が下もえの煙なるらむ」

とよめりけるを、判者「あはれ仕うまつりたる歌かな」と侍りければ、右歌人かちぬとて、こ