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る人いかゞ」など申し侍りければ「菅原のおとゞも讃岐守ぞかし」と仰せられければ、江の帥申しけるは、「博士はべちのことに侍り。又才學高く侍らむ兄を大臣になさせ給はむに、出家するおとうとはよに侍らじ」と申しければ、堀河殿はなり給へりけるとぞ。六條のおとゞは、その後にぞなり給ひし。中宮の御おや、堀河のみかどの御おほぢにて、いとめでたくおはしき。後には大將をば、太政のおとゞの大納言におはせしに讓り申し給ひて、行幸に仕うまつり給へりしこそ、いとめづらかに侍りしか。遲く參り給ひて、道にて車よりおりて、馬にのり給ひしかば、大將殿よりはじめて皆おり給へりしに、盛重といひしが、左衞門の尉なりしと、行利といふ隨身の陣につかうまつりしを、あがり馬にのせて、さきに具せさせたまへりければ、なほ大將にてわたり給ふとぞ見えける。このあにおとうとのおほいとの、少將におはしける時、隆俊の治部卿御むこにとり申さむとおもひてその時目しひたる相人ありけるに「彼の二人いかゞ相したてまつりたる」と問はれければ、「ともによくおはします。皆大臣にいたり給ふべき人なり」といひけるを、「いづれか世にはあひ給ふべき」と問はれけるに、「おとうとは末廣く、みかど一の人も、出でき給ふべき相おはす」と申しければ、六條殿をとり申したるとぞきゝ侍りし。其のかひありて、みかど關白もその御末より出でき給へり。雪ふりのみゆきにおそく參り給ひて、「雪見むとしもいそがれぬかな」とよみたまへるこそ、いとやさしく昔の心ちし侍れ。よる女の許にわたり給へりけるに、かねてもなくて、門に車の絕えずたちければ、それを召して出でたまひければ、盛重といひしが、出でさせたまふ道に常はふし