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供養せさせ給ひけり。その時院に御ものまうでに具せさせ給ふべかりけるとかや。殊にえらびたまひて、あらぬ方の僧なりともよく說きつべきをと、おぼしけむもいとたふとし。こがねの文字をも院女院などはなちたてまつりては、ありがたきことを、おぼろげの御心ざしにはあらざるべし。女宮は一品の宮とておはしましゝは、禧子の內親王とて、賀茂のいつきに立ち給へりし、御なやみにて程なく出で給ひにき。長承二年十月十一日、御とし十二にてかくれさせ給ひにき。いつきの程なくおりさせ給ふためしありとも、まだ本院にもつがせ給はで、かくいでさせ給ふことはいとあさましき事とぞきこえ侍りし。廿七日薨奏とて、このよし內裏に奏すれば、三日は廢朝とて、御殿のみすもおろされ、何事も聲たてゝ奏することなど侍らざりけり。みかどは御いもうとにおはしませば、御服たてまつりなどしけり。紋もなき御冠、繩纓など聞こえて、年中行事の障子のもとにてぞ奉りける。みかどは日の數を月なみのかはりにせさせ給ふなれば、三日御ぶくとぞ聞こえける。次の姬君は、又さきの齋院とて、恂子の內親王と申しゝ、後には綩子とあらためさせ給ひたるとぞきこえさせ給ひしは、大治元年七月二十三日にうまれさせ給ひて、八月に親王の宣旨かぶりたまひき。長承元年六月卅日、いつき出でさせ給ひて、保元三年二月、皇后宮にたゝせ給ふ。上西門院と申すなるべし。永曆二年二月十七日、御ぐしおろさせ給ふと聞こえき。后にたゝせ給ふと聞こえしは、みかどの御母になぞらへ申させ給ふとぞきこえさせ給ふ。六條院の例にやはべらむ。この女院のさきの齋院とてからさきの御はらへせさせ給ひし時、御をぢの太政のおとゞのよみ給へ