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此のおとゞの御むすめ、俊忠中納言のむすめの腹に、四人おはすときこえ給ふ。おほい君はいまの皇后宮におはしますとぞ。この院の位の御時に、きさきにたち給ひし御名は忻子と申すなるべし。その次に姬君おはしき。「きさきふたりの中にておぼろげの御ふるまひあるまじ。佛の道にこそは入らせ給はめ」と故おほい殿のたまはせければ、それにたがはず、若くおはすなるに御ぐしおろし給ひたると聞き侍る、いとあはれに、この御事をたれがよみ給へるとかや。

  「宮城野の秋の野中のをみなへしなべての花にまじるべきかは」

とぞ聞き侍りし。誠にいとありがたく契りおき給ふとも、そのまゝにおぼしなり給ふ、いといとありがたく物し給ふ御心なるべし。三の君は宇治の左のおとゞの北の方の、父おとゞの御いもうとにおはすれば御子にしたてまつり給ひて、近衞のみかどの御時、姉宮よりさきに、十一にて后に立ち給へり。近衞のみかども此の宮も、そのかみまだ幼くおはしゝ程に、九條のおほきおとゞの御むすめを鳥羽の院、女院などの御さたにて、女御にたてまつりたまへり。法性寺のおとゞの北の方は、九條のおほきおとゞの御いもうとにおはすれば、御子とてうらうへより心ひとつにてたてまつり給へりしに、宇治の左のおとゞ年ごろは兄の法性寺のおとゞよりも、世にあひ給へりしに、あまりにおはせしけにや、さすがにひとつにもおしは〈いイ〉り給はざりしに、今參り給ひたる中宮のみひとつにおはしますことにて、父の伊通のおとゞも大納言などまうして常に侍ひ給ふ。關白殿も宇治のおとゞも、心よからぬさまにて隔