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衞門の督の御子なり。歌よみ給ふとぞ。又山に法印など申しておはすなり。此人々の御いもうとに、廊の御方と申して、白河院の御おぼえし給ふ人におはせし。後には德大寺の左のおとゞの御子二人うみ給へりき。今の公保の大納言におはすなり。いまひとりは山に僧都と申すとぞ。左衞門の督の次には山の座主仁實と申しゝ、おなじ御はらにおはせしかば、山僧などは二位の僧正などぞ申すなる。いと能はすぐれたるもおはせざりけれども、心ばへかしこくおはせしかばにや、世の覺えなどもすぐれ給へりけるにや。世の末に、さばかりの天臺座主は、かたくなむ侍る。山のやんごとなき堂どもの破れたるも、多くつくりたて、大衆などの中にすこしもふようなるをば、よくしたゝめなどせられければ、世のためかの山のため、その時はおだやかになむ聞こえ侍りし。傳敎大師の二度生れ給ふといふ事も侍りけるとかや。白河の院のかくれさせ給ひけるに、七月七日俄に御心ちそこなひて、つとめてより御霍亂などきこえて、定かにものなど仰せられざりけるに、今はかくと見えさせ給ひける時、かねてより忠盛のぬしに「念佛かならずすゝめよ」と仰せられおきたりければかくなむうけ給はりしと、爲業といふが母して、たびたび申しけれど、仁和寺の宮など、「佛頂尊勝陀羅尼」とのみ仰せられて、「これおなじことなり」とのたまはせけれど、かねてうけ給はりたるに、違ひておぼえけるに、この僧正の「南無阿彌陀佛」と高く申したまへけるなむ、うれしかりしとこそのちに聞こえけれ。その僧正は座主などを辭し給ひて、坂本に梶井といふ所にこもりゐて、四十にあまりてうせ給ひにけり。