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かきたる、むねにも入れ、ひきそばめなどはし給はで、いつとなくさゝげておはしければ、御弟の太政のおとゞ、其折まだ中納言などにやおはしけむ、見給ひて、この人は歌などもよみ給はぬにとおぼつかなくて、「御歌見給へ侍らばや」と申し給ひければ、「何ごとのたまふぞ。前の左衞門の佐ひがことせられむやは」とのたまひける、をかしかりしとぞ侍りける。基俊の君、「すぐれたる歌よみなむ、よき歌なるべし」とのたまふにこそとはきこゆれど、歌の道は善きにつけ、惡しきにつけて、しゝあひて、われもたびたびに、人にも見せあはせなどすることを、我がえ〈見イ〉ぬことは、かくおはする事なり。其の子にて、冷泉の宰相公隆とておはせし、わかくて後少將ときこえし、若殿上人のいうなるにておはしき。其の弟に、兵衞の佐成隆とておはしける。まだをさなくてかくれたまひにき。こと御腹にや、奈良に覺珍法印と申しゝは當時おはすざえある人と聞こえ給ひき。春宮大夫の二郞におはせしにや、大宮のすけ實兼とか聞こえて、後には刑部卿など申すおはしき。この御中に上達部などにえ成りたまはざりき。その御女の、あはのかみ朝綱と聞こえし、むすめの腹におはしける、女院に參り給へりけるが、鳥羽の院しのびて物など仰せらるゝ事ありとて、法皇の出ださせ給ひけるとぞ聞こえ侍りし。

     梅のこのもと

春宮大夫の三郞にやあだり給ふらむ。これも美濃守のむすめの腹におはせし、太政大臣實行のおとゞは、學問もし給ひたる人にておはせし上に、たちゐの振舞ひなどめでたく、よき上