Page:Kokubun taikan 07.pdf/427

提供:Wikisource
このページは校正済みです

詩など作らせ給ひけるとて、人の語り侍りしは、「はるにとめる山の月は、かうべにあたりてしろし」とぞきこえ侍りし。また忘れ侍らぬ、これはふみを題にて作り給へるに、吳漢とかいふ人とぞいひし。所の名などをも、さすがに、たどたどしくなむ申しゝ。また御歌もうけ給りき。

  「くもりなき鏡の光ますますに照らさむ影にかくれざらめや」

と白河院の御事を、伊勢の大輔よみ侍りける、その御返しとぞきこえ侍りし。白河の院一つ御はらの御いもうとは、仁和寺の一品の宮とて近くまでおはしましき。聰子內親王と申すなるべし。後三條の院うせさせ給ひし時、その日御ぐしおろさせ給ひて、仁和寺に住ませ給ひき。さておはしましゝかども、年ごとに、つかさくらゐなど賜はらせ給ひき。その御おとうとに、伊勢のいつきにておはせし、三品したまへり。俊子內親王ときこえき。樋の口の齋宮と申すなるべし。次に賀茂のいつき、佳子の內親王ときこえ給ひし、御惱みによりて、延久四年七月に罷りいで給ひき。富の小路の齋院とぞ申すめりし。齋宮はしはすに出で給ひき。そのおとうとにて篤子の內親王と申しゝも、皆同じ御はらからなり。始め延久元年賀茂のいつきに立ち給ひて、同五年に院うせさせ給ひしかば、前の齋院にておはしましゝに、をばの女院の御讓にて准三后御封など賜はらせたまへりし程に、堀河の帝の御時、后にたち給ひき。みかどよりは、御とし殊の外におとなにおはしければ、世にうたふ歌なむはべりけるとかや。春宮大夫殿は誠の御子もおはせねば、三條の內大臣能長のおとゞの甥におはするをぞ、子にし