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りて、返したまふとて、

  「とゝせあまり手ならしたりし梓弓かへすにつけてねぞなかれける」

とはべりけるかへしに、中の院、

  「さりとても思ひな捨てそあづさ弓ひきかへす世も有りもこそすれ」

と侍りけるかひありて、右衞門の督になり給へりき。御むすめ近衞のみかどの御時、女御にまゐり給へりし、后にたち給ひて、みかどかくれさせ給ひしにかば、御ぐしおろし給ひてけり。九條の院と申すなるべし。法性寺殿の御子とて參り給へれど、誠にはこの御子なれば、いとめでたき御名なり。きさきには立ち給へれど、院の御女、一の人のなどならぬは、かたき事にぞ侍るなる。御みめも御けはひも、いとらうある人になむおはすとて、鳥羽の院もいと有り難くとぞほめさせ給ひける。近衞のみかどのかくれさせ給ひて、御ぐしおろしたまひてまたの年、五月のいつかの日、皇嘉門院にたてまつらせ給ひける、

  「あやめぐさひきたがへたるたもとには昔をこふるねぞかゝりける」。

御かへし、

  「さもこそは同じたもとの色ならめかはらぬねをもかけてけるかな」

と侍りけるとぞ聞こえ侍りし。太政のおとゞの太郞にておはせし、宰相とて、うせ給ひにき。その宰相は二郞か太郞かにおはすとて、おほぢの大納言殿、じたぎみとわらは名をつけ申し給ひけり。その宰相の御子は、此の頃泰通の少將と申すなる。侍從大納言の子にし給ひてお