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まで位高くおはする、あまた聞こえたまひしか。このおとゞ、御堂の第二の御子におはす。御母は、西の宮の左大臣高明のおとゞの御むすめなり。永承二年八月一日、內大臣になり給ふ。御年五十四、大將もとのまゝにかけ給ひき。康平三年に右大臣になり給ひき。御年七十三と聞えき。和歌の道むかしに耻ぢずおはしき。歌よみは、貫之、兼盛、堀河のおほい殿、千載の一遇とかや、ある人申し侍りけると申し出だしたる、人はえ聞き侍らず。御集にもすぐれたる歌おほく聞こえ、撰集にもあまた入り給へり。いたく人の口ならし侍る御歌は、花紅葉七夕千鳥など、數知らず聞こえ侍るめり。中にも戀の歌は、いたく人の口ずさびにもし侍る、多くよみ給へりき。「戀はうらなき」などよみ給へるぞかし。この御歌のさまは、めづらしき心を先にし給へるなるべし。帥のうちのおとゞの御むすめの腹に、君たちあまたおはしき。後朱雀の院の御時、女御に奉り給へりし。麗景殿の女御と申すなるべし。帝かくれさせ給ひて後、里にまかりいで給へりけるに、植ゑおき給へりける萩を、またの年の秋、人のをりて侍りけるを見給ひて、よみ給ひける、

  「こぞよりも色こそ濃けれ萩の花淚の雨のかゝる秋には」

その女御の生み奉りたまへりける姬宮、賀茂のいつきと聞こえ給ひき。この宮繪合し給ひしに、「卯の花さける玉川の里」と相模がよめるは名高き歌にはべるなり。三の君は後三條の院の東宮と申しゝ時、御息所にまゐり給へりき。このおとゞの太郞にては、兼賴中納言おはしき。御はゝは、女御のひとつ御はらなり。いと末のはかばかしきも、おはせぬなるべし。次に