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ふ。

     みづぐき

四條の民部卿の御子は、又俊明の大納言のむすめのはらに宰相中將敎長ときこえ給ひし、後には左京のかみになりて、讃岐の院のことゞもおはしましゝに、かしらおろし給ひて、常陸の浮島とかやに、流され給へりし、歸りのぼり給ひて、高野にすみ給ふときこえ給ふ。和歌の道にすぐれておはするなるべし。手かきにもおはすとぞ。ところどころの額などもかき給ふなり。御堂の色紙がたなどもかき給ふとぞ聞こゆる。佐理の兵部卿、しんのやうをぞ好みて、かき給ふと聞ゆる、かつは法性寺のおとゞの御すぢなるべし。花園のおとゞのも、さやうのすぢにかゝせ給ふとぞ聞えさせ給ひし。宇治の左のおとゞの「朝隆、敎長、いづれかまさりたる」とときたゞと聞こえし人に問ひ給はせければ、定め聞えむもよしなくて、「とりどりによく書き侍る」とぞ答へ申してし。定信の君、人に語られけるを、たびたび問はせ給ひけるにや、申しきられにけりとも聞え侍り。「はだへと、骨とに喩へたる」とかや、その入道は人にかたられける。朝隆の中納言は、行成の大納言の消息、ゆゝしくうつしにせられたるとぞ聞こえ侍るめる。その消息もたぬ人なし。世に多く侍るなり。敎長の御手も、さまざま京ゐなか傳はり侍るなり。宮內大輔も、ひじりの進むるふみ、何かとすぐさずかきひろめ侍りけり。いかに本多く侍らむ。道風のぬしの、いますかりける世にこそ、ひとくだりもたぬ人は、耻に思ひ侍りけれ。宮內の大輔は、大納言のすゑなれば、よく似らるべきにて侍れど、一つの樣を傳へ