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后のひとつ御はらにおはすなり。此の頃は、經宗の左のおとゞときこえ給ふ。二條院の御をぢにておはせし上に、人からもはかばかしくおはするにや。よき上達部とぞきこえたまふめる。おやの大納言殿も、兄の中納言殿も、物などかき給ふことおはせずと聞こえしに、是れは、ふみにもたづさはり給へるとぞ聞こえ給ふ。御子に中將のきみおはすなる。淸隆の中納言のむすめのはらにやおはすらむ。この大臣殿の御兄ども、多くおはするなるべし。經定の中納言は、治部卿通俊のむすめの腹におはしけるとぞ聞こえし。その次に、光忠の中納言と聞こえ給ふも、左のおとゞの御兄におはするなるべし。二條のおほぎさいの宮の女房の御子におはせしを、彼の宮の養はせ給ひて、はるわか君と聞こえし、此の頃は前の中納言民部卿になり給ふとかや。按察の大納言の御子は、多くおはしけるとぞ聞こえし。大侍從などいひてもおはしき。仁和寺に靜經僧都と聞こえたまひしは、よき眞言師にて、しるしある人とぞ聞こえ給ひし。おほとのゝ四郞にやあたり給ひけむ。按察のひとつはらに能實の大納言と申しゝ、小野の宮とぞきこえ給ひし。兄の殿よりも、文字などかきたまひしにや。檢非違使の別當などし給ひき。大殿の五郞にやおはしけむ。忠敎の大納言、四條の民部卿とぞきこえ給ひし。その御母遠江守永信が子に、藏人おりて、つかさもなかりしにや、永業と聞こえし人のむすめのはらにおはす。その民部卿の御子どもあまたおはしき。忠基の中納言と申しゝ、筑紫の帥になり給へりしかとよ。神樂の笛をぞよく吹きたまひけるとうけたまはりし。その御子に、六角の宰相家通と申すなるは、重通のあぜちの大納言の養ひ申し給ひけるとぞ聞こえ給