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かけぬものゝうしろなどに有りけるを、もりのり、つねのりなどいふ人どもして、求めなどして、かくれのあやしの方まで見けれど、え求め得でかへり給ひて、又ひるあらぬさまにて、かくわたらせ給へると侍りければ、このたびはいであひ奉り、たいめしけるにも、昔今の物語などして、ことうるはしく、かへり出でさせ給ひにけり。ふたゝびながら、世つかざりしなとぞいひけると、人はかたり侍りし、この御童名はあやぎみと申しけるに、富家殿法性寺殿、親子の御中、後にこそたがはせ給へりしか。はじめは左のおとゞ、御子にせさせ奉り給ひけるころ、餝り太刀もたせたてまつらせ給ひけるに、

  「代々をへて傳へてもたるかざり太刀のいしつきもせずあやおぼしめせ」

とよませ給へりける程に、末には御心どもたがひて、この弟の左のおとゞを、院と共にひき給ひて、藤氏の長者をもとりて、これになしたてまつり給ふ。賀茂まうでなどは、一の人こそ多くし給ふを、兄の殿をおきて、この左のおほいどのゝ、賀茂まうでとて、世の營みなるに、東三條などをも取り返して、かぎなどのなかりけるにや御倉の戶わりなどぞし給ふと聞え侍りし。ふたり並びて、內覽の宣旨などかうぶり給ひ、隨身給はりなどし給ひき。かゝる程に、鳥羽の院うせさせ給ひて、讃岐の院と左のおとゞと御心合せて、この院のくらゐにおはしましゝ時、白河の大炊の御門殿にて、いくさし給ひしに、みかどの御守りつよくて、左のおとゞも、馬に乘りて出で給ひける程に、誰れが射奉りたりけるにか、矢にあたり給ひたりけるが、奈良に逃げておはして、程なくうせ給ひにき。その公だち、右大將兼長と聞こえたまひ