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なれば、藤なみのあと絕えず、佐保川の流れ、久しかるべき御有樣なるべし。

     濱千鳥

此の近くおはしましゝ入道おほきおとゞ、御心の色めきておはしましゝかば、ときめき給ふかたがた多くて、北の方は、きびしくものし給ひしかども、はらばらに公達おほくおはしましき。奈良の僧正、三井寺の大僧正、このふたりは、をとこにおはしまさば、今は老い給へる上達部にておはすべきを、北の方の御はらに、をのこ君たちもおはしまさで、女院ばかりもちたてまつり給ひつるにつけても、大方も嫉ましき御心の深くおはしましけるにや。御房たちの、幼くおはしましゝより、おとなまで、近くもよせ申させたまはず。いなごなどいふ蟲の心を、すこし持たせ給はゞよく侍らまし。后などは、かの蟲のやうに、妬む心なければ、御子もうまごも多くいでき給ふとこそ申すなれ。關白攝政の北の方も、同じ事にこそおはすべかめれ。されど年よりてはおもほしなほしたりけるにや、君だち外ばらなれど殿の內にも多くおはしましき。源中納言の姬君たちふたりに、ひとりのは故攝政殿今ひとりのには當時の殿、又山に法印御房とておはしましき。又奈良に僧都とておはしますなり。又女房の御はらに、右のおほい殿、三井寺のあや僧都のきみ、又三位中將殿など申しておはしますなり。又山の法印などきこえたまふ。又末つかたに時めかせ給ひしはらにおはする、山の法眼など申してきこえ給ふ。女きんだちは、女院、中宮などおはします。讃岐のみかどの御時の中宮聖子と申すは、北の政所ひとり生み奉らせたまへるぞかし。その御母は、宗通の大納言の御むすめ、