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將にはならせ給はざりしかとよ。二條のみかど、位につかせ給ひしに、父おとゞの讓りにて、保元三年八月十六日、關白になり給ふ。御とし十六とぞきこえ侍りし。昔よりかくきびはにてなり給へる一の人、これや始めにておはしますらむ。から國に甘羅といひける人は、十二にてぞ大臣になり給ひける。世の人をさなしとも申さゞりけり。人がらによるべきことにこそ侍るめれ。永曆元年八月十一日右大臣にのぼり給ふ。永萬元年六月みかどの御位みこに讓り奉らせ給ひし日、攝政にならせ給ふ。同二年七月廿六日御とし二十四にて、かくれさせ給ひにき。大臣のくらゐにて十年おはしましき。このおとゞ御みめもこえきよらにおはしましき。又手なども、昔の跡つぎまさせ給へりけり、いとめでたく聞きたてまつりしほどに、夢のやうにてかくれさせ給ひにし、いと悲しくこそ。去年は二條のみかど、ことしはこの殿の御事、折ふし心あらむ人は、おもひ知りぬべき世なるべし。贈太政大臣正一位など、後に添へ奉られはべりとぞ聞こえ給ふ。きのふ今日のちごに、おはしますを、昔語りにうけ給はるやうに覺えて、いとあはれにかなしく侍り。六條の攝政と申すなるべし。又中の攝政殿と申す人も侍り。太郞におはせしかども、中の關白と申しゝ樣なるべし。この次の一の人は、今の攝政のおとゞにおはします。御母はこれも國信の中納言の三の君にぞおはする。御名は國子と聞こえ給ふ。三位し給へるとぞ、一の人藤氏の御はら、多くは源氏におはします。然るべきことにぞ侍る。宇治殿二條殿の御母は、一條の左大臣の御むすめ、後の二條の關白殿は、土御門の右のおとゞの御むすめ、法性寺殿は六條の右大臣、此の殿ふたところは、源中納言の姬君ふ