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しなしてかゝれてぞすゑざまはおはしましける。いとあはれに、悲しくなむ侍りける。二條の院くらゐに即かせ給ひし時、關白をば御子に讓りまさせ給ひて、大殿とておはしましゝほどに、御ぐしおろさせ給ひて、御名は圓觀とぞつかせ給ひける。このおとゞ失せさせ給ふほど近くなりて、法性寺殿かつら殿など、御覽じめぐらせ給ひて、ところどころの有樣を、さまざまの文ども作らせ給ひて、盛光惟としなどいふ學生どもに給ひて、和してたてまつり、判ぜさせなどせさせ給へり。後の世に、佛道ならせ給へるにや、こゝの品のはちすの上に、おはしますなど、夢にも人の見たてまつりたるとかや。式部の大輔永範、夢に見たてまつりたるとて、詩三首作りて給はせける中に、

  「漢月天ニウルハシクシテコトゴトクナリトイヘドモ、忘ルゝコトナカレ昔ノ尼文ヲモテアソブコトヲ」

と作らせ給へりけるとて、和して奉らむとしける程に、おどろきにけり。夢のうちには都率の內院におはしますとおぼしかりきとぞ、和してたてまつれる文にはかゝれ侍るなる。

     藤の初花

攝政前の右大臣とて、近くおはしましゝは、法性寺のおとゞの太郞にぞおはしましゝ。御母從二位源の信子と申しき。國信と申しゝ、中納言のむすめにぞおはしますなる。このおとゞの御名は、基實とぞ申すとうけ給はりし。いづれの御時の例とか、左衞門の督など聞こえさせ給ひしに、其の後大納言右大臣などにならせ給へりき。折ふしあきあはざりけるにや、大