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のおとゞの御むすめ、仁和寺の御室と申しゝ、一つ御はらからにおはしましゝかば、其の北のまんどころ、昔は白河の院にも參り給ひけるにこそ。仁和寺の法親王をば、師子王の宮とぞ世には申しゝ。御母の童名にやおはしけむ。さて此のおとゞ仁和寺の宮と親しく申しかはしたまひき。富家のおとゞの北の方にては、堀川の左のおとゞの御むすめおはせしかども、それは御子おはしまさで、くちをしきことどもありけるにやよりけむ。後には疎くなり給ひき。其の六條のおとゞの御むすめの、京極の北のまんどころにさぶらひ給ひけるを、始めは院にめして宮生み奉り給へりける程に、富家のおとゞ若くおはしける時に、はつかに覗きて見給へることありけるより、御病ひになりて、惱みたまひけるを、命も絕えぬべくおぼゆることの侍れど、心に叶ふべきならねば「世に永らへ侍らむ事もえ侍るまじ。又心のまゝに侍らば、いかなる重き罪も、かうぶる身にもなり侍りぬべし。いづれにてか、よく侍らむ」など、京極の北の方に申し給ひけるにや、「いかにも御命おはしまさむ事に、まさることはあるまじければ」とて、院に申させ給ひたりけれは、許したまはらせ給ひけるとかや。ひがごとにや侍らむ。人の傳へ語り侍りしなり。さて住みたまひけるほどに、まづは姬君うみ給ひ、又此のおとゞをも、生み奉り給ひてのち、さてうるはしく住み給ひけるとぞうけ給はりし。此のおとゞ保安二年のとし、關白にならせ給ふ。御とし廿五にぞおはしましゝ。同四年正月に、讃岐の帝くらゐに即かせ給ひしかば、攝政と申しき。みかどおとなに成らせ給ひて、關白と申しゝほどに、近衞のみかど位につかせ給ひしかば、又攝政にならせ給ひき。久壽二年七月、近衞