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は忠實とぞきこえ給ひし。康和元年閏九月廿八日、內覽の宣旨かうぶり給ひき。御とし廿二。同二年七月十七日、右大臣にならせたまひき。大將も猶かけさせ給へりき。天永三年十二月十四日、太政大臣になり給ひき。はじめは宇治の川瀨波しづかにて、白河の水へだてなくおはしましゝかば、富家殿つくり給ひて、院わたらせ給ひけるに、宇治川にあそびの船、歌うたひて、波に浮かびなどして、いと面白くあそばせ給ひける。盛定といひしをとこ、歌うたひ、その時こうたうなどいひし、船に乘り具して、うたつかうまつりけるとかや。其のたび人々に、歌よませさせ給はざりけるをぞ、くちをしくなど申す人もありける。かやうの所にわたらせ給ひて、何となき御あそびも、古き跡にも似ぬ御心なるべし。かやうにて過ぎさせ給ひしに、保安元年十一月十二日にやありけむ、夜をこめて院よりとて「堀川のおとゞ俄に參り給へ」と御使ありて、おとゞ內覽とゞむべきよしを、仰せ下し給ひけり。白河の院うせさせ給ひて、鳥羽の院世しらせ給ひし時にぞ、富家より出でさせ給ひし。待賢門院をさなくおはしましゝを、白河の院養ひ奉り給ひて、鳥羽の院くらゐにおはしましゝ、女御にたてまつり給ふほどに、入道おほきおとゞの御むすめ、女御に奉らむとせさせ給ふと聞こゆるによりて、關白うちとめ申させ給ふとぞ聞こえ侍りし。白河の院の御世に、きさき御息所などかくれさせ給ひて、さるかたがたもおはせざりしに、白川殿ときこえ給ふ人おはしましき。その人待賢門院をば養ひ奉り給ひて、院も御むすめとてもてなしきこえさせ給ひしなり。その白川殿あさましき御すぐせおはしける人なるべし。宣旨などは下されざりけれども、世の人は祇園