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て三昧行ふ僧も、まだかすかに侍るなり。后まだおはしましける折、夕立のそら物おそろしく、鳴る神おどろおどろしかりけるに、御經よみてゐさせ給へりけるを、神落ちて御經なども紙の所ばかり燒けて、文字はのこり、御身には露の事もおはしまさゞりける、いとたふとく、あさましき事とぞ聞き侍りし。うせ給ひけるときも、いとたふとくて、淨土にまゐり給ふとぞ申し侍りし。大二條殿の君たちかくなり。

     うすはなざくら

昔は世もあがりて、うちつゞきすぐれ給へるは申すべきならず。又とりわきたる御能などは次のことにて、近き世の關白には、大殿とてをぢの大二條殿のつぎに、一の人におはしましゝこそ、御みめも善く、御心ばへも末榮えさせ給ふ事も、優れておはしましゝか。その御名は、師實とぞ聞こえさせ給ひし。宇治のおほきおとゞの、第二の御子におはしましき。御母贈從二位藤原の祇子と申しき。四條の宮と一つ御はらなり。大臣の位にて四十二年おはしましき。承保二年九月、內覽の宣旨かうぶり給ひて、十月三日氏の長者にならせ給ふ。十五日に關白にならせ給ひき。御とし三十四。白河の院の御時なり。大將はのかせたまひて、御隨身なほ賜はらせたまひて、牛車の宣旨かうぶらせ給ふ。承曆四年十月に、太政大臣の上につらなり給ふべき宣旨ありき。堀河の院くらゐに即かせ給ひし日、攝政にならせ給ふ。同四年內舍人隨身たまはり給ふ。寬治二年十二月に、太政大臣になり給ふ。同四年攝政の御名はかはりて、關白と申しゝかども、猶司召などのことは、同じことなりき。嘉保元年三月關白のかせ給ひ