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花見にわたり給ふとて、小式部の內侍に、かくと仰せられければ、

  「春のこぬところはなきを白川のわたりにのみやはなは咲くらむ」

と申したりけるこそ、いとやさしくとゞまりて見え侍れ。和泉式部とかきたるも侍れば、母のよみて侍るにや。

     はちすの露

四條の大納言のむすめの御はらに、御子ども多くおはしましき。太郞にては、山の井の大納言信家の君おはしましき。いとよき人におはしましき。宇治殿は「山の井ばかりの子をえもたぬ」とぞ仰せられける。いかばかりおはしましけるにか。何ごとにか侍りけむ、字治殿の御許におはしけるに、わさとすゑまさむとおぼして、見かへりて、久しくものし給ひけるにも、遂に居給はざりけるとかやぞ聞こえ侍りし。いと末おはせぬに、土御門の右のおとゞのひめぎみをぞ養ひ子にて、大殿の北のまんどころと申しゝ。二條殿の次の御子は、三位侍從信基とておはしましき。又九條の太政のおとゞ、信長とておはせし、それもはかばかしき末もおはせぬなるべし。木幡の僧正、なが谷の法印などいふ僧きんだちおはしましき。僧正は小式部の內侍のはらなればにや、歌よみにてこそおはすめりしか。「粟津野のすぐろのすゝきつのぐめば」などいふ歌、撰集にも見え侍るめり。うせ給ひて後も、上東門院の御夢に御覽じける、僧正の御うた、

  「あだにして消えぬる身とや思ふらむはちすの上の露ぞわが身は」